深谷教会降誕節第2主日礼拝(新年礼拝)2022年1月2日
聖書:ルカによる福音書2:39~52
説教:「神と人から愛される者となる」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-289、280
「さて、両親は過ぎ越しの祭りには、毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習(慣例)に従って都に上った。」(ルカ2:42)。
今ルカ福音書は、過ぎ越しの祭りのことを語ろうとしています。イエスさまは、過ぎ越しの祭りのころ十字架につけられ死んで葬られ陰府(よみ)に降り復活されメシア(救い主)となられました。この大きなことを想起する必要があります。この時のイエスさまの両親には、そうしたことは思いもよらないことでした。
イエスさまの両親マリアとヨセフは、「イエスが12歳になった時も、慣例に従って祭りのために上京しました。そうです「慣習に従って」神殿のあるエルサレムの都に上京したのです。私たちにも慣習がいくつもあります。ひょっとすると今日も慣習に従って教会に来ているのかもしれません。私たちは、慣習に従って礼拝を守り、帰ってゆく、こうしたことを続け習慣化しているうちに肝心なことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。
今朝の聖書の第1のメッセージは、私たちにとって教会はどのようなところか、またどのような思いで礼拝をささげているかを見直す機会を与えることにあります。
本日の聖書には、慣習を破るような出来事が記されています。それは少年イエスが、一行の中に見当たらないという一大事が起こったのです。母マリアも父ヨセフも自分たちの子が神の子メシアであることを知っていたはずなのに、イエスさまの不在を慣習化していたのです。つまり、イエスさまがまことの父の家(エルサレム神殿)にいるのにイエスさまがいなくなったこと(事件)を慣習化してよくある迷子、あるいは誘拐かもしれないと思い探し始めたのです。しかし、神さまが新しいことを始めようとされていることにマリアとヨセフを含めて誰も思い当たらなかったのです。
信仰は、慣習(習慣)を変えてゆく力があるのです。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです。」(ルカ2:48)と母マリアは心配のあまりこう言いました。それは当然、どんな母親でもそう言うに決まっています。それが親の子に対する愛というものです。だが、この愛は、少し身勝手な点があります。イエスさまの答えが明らかにしています。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の天の父の家にいることは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)。このイエスさまの答えには、神殿つまり現在の教会は、天の父の家であり、独り子なる神の子の家であるばかりか、イエスさまをキリストと信じ受け入れることによって神の子とされた私たちの家でもあるということです。ですから私たちは教会に来ることを慣習化することなく私たちの天の父の家であることを忘れずに、主日ごとに天の父の家にもどり、父なる神さまの御前にぬかずき礼拝をささげ、聖霊による贖いと清めを受け、神さまの命のみ言葉(命の糧)をいただいて週日の歩みへと出で立つのです。
そして、もう一つ本日の聖書の箇所には大切なメッセージが語られています。イエスさまは、天の神さまを「わたしの父、自分の父」と言っておられます。つまり、ここで少年イエスは、天の御父のひとり子であると語っておられるのです。イエスさまは、神のみ子であり、独り子なるただ一人の神のみ子であるのです。けれども、イエス・キリストが神さまの子であるということは、同時に、この御子キリストによって、「私たちも神の子である」ということを含んでいます。
パウロはロマ書で、「神の霊によって導かれるものは皆、神の子です。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受けるからです。」(ロマ8:14~17)そのような共同の相続人である私たちを神の子とするために、イエスさまは一人の幼子となられ少年となって、わたしたちと、まったく同じ人生を歩んでくださったのです。「イエスはますます知恵が加わり、背丈も伸びて、神と人から愛されました。」(ルカ2:52)このように「その有様は人と異ならず」(フィリピ2:7)でした。不変の神さまが、成長されるとは一体どういうことなのでしょう。しかし、今、変化をすることがない神さまが変化すべきこの世に来て下さったのです。変化する私たち人間と同じ姿になられたのです。私たちが悩む人生を、イエスさまもまた共に悩まれたのです。私たちは、つい先日主イエス・キリストのご降誕を祝い主イエスを心の王座にお迎えしたばかりです。そう、インマヌエルの主をお迎えし新しい年を歩み出したばかりです。「インマヌエル、神我らと共に」とは、人類と共にというだけではなく、私たち一人一人のところに来て下さるということです。このことは非常に日常的にということです。お金のことや病気、その他さまざまな悩みなどを解消してくださるためだけではなく、悩みを共に負ってくださるために来られたということです。その時、悩みも、人間のことではなく、神さまのこととするためです。神のみ子が私たち一人一人の人生を共に歩んでくださるということです。そうです。礼拝を通して自分が神の子とされていることを確認し、主イエスに倣って主と共に歩むことが許されていることを確信する時としたく思います。
最後に、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)
ここには、教育の原則があるように思われます。「神と人とに愛される人。」つまり、イエスさまのような人に変えられる<神の子供として成長していく>ことが、私たちクリスチャンの生きる目標となるのではないでしょうか。教会は神さまの愛の学校とも言われます。愛の教育をする時、「あなたは、神と人を愛しなさい」というだけではなく、「あなたは、神と人から愛されているでしょうか」と問うことが肝要だと思います。私も自分に問いかけてみたいと思います。この問いの答えを目標にして新しい一年の旅へと主と共に教会の皆様と共に出発したく思います。